【小説】もうゆりかごでは眠れない
人はあんまり意地悪をされたり、驚かされたりすると、ママのお腹の中に戻りますね。それは、この娘も例外ではありません。
娘は、生まれてからすくすく健やかに育った女の子ではありますが、たった今、ママのお腹の中にいます。
では、何故また戻ってしまったのでしょうか。少しやねこいように思うかもしれませんが、割と単純な話なのです。
ここしばらくの娘は、頭を抱えて過ごしていたそうです。
なんと言いますか、この娘はしょうがないくらい気概がなく、意気地なしで、とにかく気弱で、他の子どもと比べて根性が大きく欠如しております。
人の態度や顔色にばかり敏感で、自分が傷つきたくないために人を傷つけない、優しさとは少しズレた心の持ち主です。
いくつかの友人とは仲良く過ごしておりましたが、彼女の心は分かる人には見透かされるもので、お世辞にも思いやりがあるとはとても言えないあるクラスメイトは、腐った魚のような歌を毎日、娘に聴かせていました。
どんな歌か、少し聴いてみましょう。
ピエロの役は任せたぞ
滑稽 ニワトリ お似合いだ
お前の南は 汚れた花だ
永久不滅に におってる
こんな下品な歌を、よく思いついたものです。一度、耳にしただけでも正気を失いそうですが、娘はこれを毎日、繰り返し、休み時間にも放課後にも聴かされていたわけです。
芋虫が葉を食べていくように、彼女のらくだ色の目から顔へ、首から下へ・・・と、順番に姿が見えなくなるまでに、そう時間はかかりませんでした。
娘の母親は、悲しむと言うより、少し呆れていました。それどころか、ゆりかごに戻って誰かに揺らしてもらおうとする自分の娘に、ブルーベリージャムの瓶でも投げつけてやりたい気持ちでした。この娘の姉なら、そんなことはちっとも相手にしないのに。
そんな母親のカッカした気持ちが、お腹の中の娘に十分に伝わっているのか、余計に出てくる気配はありません。
「それか、前歯の一本でも折って帰ってきたらいいのよ。」
朝食のパンを食べながら母親のその言葉を聞いた娘の姉は、「ああ、そうか」と納得したようにつぶやいて学校に行き、夕方に娘のクラスメイトの前歯をきっかり一本、持ち帰りました。
しばらく母親をひとりじめできる日々を堪能していた娘の姉ですが、遊び相手(というより暇つぶし相手)がいないことが退屈になり、何よりずっと怒ってばかりの母親に辟易してしまったのです。
言うまでもなく、母親にはハリケーンのように怒られましたが、その話はまたいずれ。
とにかく、そんな事態になってしまい、このままではもっとえらいことになるぞ、と思った娘は、次の朝に慌てたように母親のお腹から出てきて、元に戻りました。
姉のことですから、きっとこのままでは前歯をもう一本、持ち帰るに違いないと姉妹としての勘が働いたのです。
結局、今も変わらずクラスメイトには意地悪をされますが、あの汚らわしい歌だけは聴かずに済むようになりました。
母親には、もうこういうことはないようにと口酸っぱく言われましたが、当の娘は母親のお腹の中の心地よさに「またこっそり戻ってみよう」と密かに思うのでした。
おしまい
